ロボットが考える人間について

 
もう、何回も書いてるが、
普通に見えるとか、見た目なんざ、どうでもいんだよ。
見た目気にするのは若いうちだけだわ。
この見た目判断のせいで、どれだけ面倒で辛いか。嬉しくない、困っててもスルーされるんだから。
 
明日から行くとこも、
全然大丈夫。ちゃんと普通に話せてるよ。って。
あぁ、またか。。
そうやって、普通に見えるって言われる度に、中身がどれだけ出来損ないか、
自分しか知らないギャップに苦しむ。
困っていることがたくさんあるのに、伝わらない。
なんだろね、他の障害の人と見比べて
まだまだ出来ない人はいるってさ、
 
なんで、誰かと比べ続けて生きなきゃなんないの?
誰かとコミュニケーションもまともに取れなくて、人と距離とって、
 
私が1人生きてく人生であって、
私1人の世界であって、
他の誰かと調和もとれない、
私1人で精一杯
 
1人でも困ってるのに。
 
調和もとれないのに、競争相手を増やすの?
誰かと比べるの?
 
ていうか、誰かって誰だよ。
 
誰もいない私にとって、かなり関係ないよね。
その誰かとやらが出来ようが出来まいが
関係ないしね。
そんなこと考えても、自分の障害が良くなるわけでも、能力が上がるわけでもないしね。
 
変な物差しの基準の上で、健常者は言う。
大丈夫だとか、マシだとか、普通だとか、
他より…とか
そして、続けるその言葉は、一体何のためにあるのか。
・慰め、励まし
・発言者の良い人発言
・うわべだけ 
 
三つとも、いらねぇよ。
もはやコミュニケーション上必須のやりとりでもない。
なんだよ、日常レジ待ちやら車でやら、数秒にこだわってイライラしてる人ばっかで
そういう無駄な言葉の時間分で補えますけどね?
 
繰り返し繰り返し…
 
アスペルガーは宇宙人みたく言われるけど、
私のせいなのかな?
 
でも、世の中たくさん人はいる。
みんな違うはずだよね?
 
なぜ、
言われる言葉が、みんな一緒なんだろう。
違う人が発する言葉なのに。
 
その違和感をいつも感じる。
 
私は、自分がロボットみたいだと思うことが多い。けれどロボットみたいな私が、なぜ
みんな同じこと言うって思うのかな?
 
『普通の人』な人達はみんな同じことを言う。
違う人間なのに。
それは、どこかそういう思考にプログラムでもされているんだろうか。
人間味というか、もうちょい個々違ってて良くないか?と思うくらい。
自分で言っておいてなんだけど、
『普通』って括りは意外と大雑把だし、
曖昧なものだから、何とも言えない。
じゃぁ普通って何って言われるけど、
自分に成れない者を指してしまうんだろう。
 
ただ、遺伝子的なレベルで違う人間が、
なぜもこう同じことを言うのか、
 
最近思う。
 
同じすぎて気持ち悪い。
 
 
最近、他人の認識がひどく、
顔が更に拍車を掛けて覚えられないのは、
他人に興味がなくなったから、というのと、
顔が覚えれないことへの諦め、があるけれど、
 
スーパーに行くと、人を避けようとするのに
よく、目が合う。
あまり顔を見てなくて、人を避ける時に顔を上げてないと人の姿を認識しないから
買い物をしている人たちに当たらないように移動するにはやっぱり姿は見ないといけないんだが、
目が合う。
 
私が見たから見るんじゃなくて、
人は結構見ている。
自分のことだけじゃなく、買い物してる人のことを。
 
けれど、目が合った瞬間…
 
どこかで…見た…こと…ない…ある…ん?
 
…糸がたくさん絡まってる漫画的なあの思考イメージ。
 
そして、その周りの人の顔も見る。
 
どこかで…見たような…ないような(同じ)
 
 
 
…みんな、どこかの誰か、って顔
 
みんな似たように見える…
 
と、いうことは、
 
何人顔を見ても
同じということ(分からない)は
 
私の知らない(認識できない)人ってことだろう、と。
 
 
顔は仕方ないけど、言われる言葉や、
偏見に近い先入観やら、見た目判断、
そのあたりは、捉え方の問題じゃない。
 
気持ちの悪さは、
 
身体を切ったら血が出る、とか
春になったら桜が咲く、とか
そのくらいの感覚で、
 
人を傷つけちゃいけません、とか
そう思わない人もいるだろう的なものじゃない。
戦争はいけませんって、
そういう問題じゃなく、
 
まるで、生まれたら死ぬことに近いくらい、
 
人間は、誰かと比べながら生きていくものなんだって
そう、根本が云っているようだ。
 
他者と競うことは、向上心に繋がることもあるが、自信を失う。
学校の?会社の?同じ境遇の?
周りの人間と比べては、自分の立ち位置を確かめる。
 
けれど、周りの知りうる人間だけではなく、
知らない、誰かと
意識しないうちに比べている
 
優越感と劣等感を抱き生きている。
 
人より出来てはダメだった。
兄より、姉より劣っていなければ、
目立たなく生きていかなければ、
傷つく。
 
劣等感ばかりが渦巻いていた子供の頃。
人より秀でることの意味が、
自信ではなく過信にしかならないと
そう思っていた。
 
私の中身と外見の違いは、自分がよくわかっていて、
それは、他者が影響できることではない。
私の出来ないことは、
自信がついたからといって能力が上がる、
そういうものじゃなかった。
だから、他者の評価はいつだって、
私の糧になってくれなかった。
 
自分より、不幸な人も幸福な人も、
考えればキリがないこと。
世界は世界。私は私。
自分だけの一生。誰が不幸だと言おうが、幸せだと言おうが、私が決めること。
私が生きて死ぬまでは、他人が決めることじゃない。死んで滅びて存在が無くなるまで、
生きるのは、私。
他者は私に言いたいだけ言っていくだけで、
私の代わりに生きてくれるわけじゃない。
 
なので、逆に自分の物差しがバカバカしくなる。
これは、人をはかるモノじゃないらしい。
人をはかるんじゃなくて、
多分違うものをはかるんだろう。
この曖昧な世界に、人と調和するために
距離をとるために、はかるのかな?
ある程度のことを、定義するための物差し。
人ではなく、理や、物事を。
 
それを思うと、人はなぜあんなに人の人生に食い込めるんだろう。
 
他者のある程度の情報しか得られないのに、
知った風になれるんだろう。
家族?血縁?
それも他者だよ。一緒の家に暮らしてるだけの他人。そんな家庭もあるし。…だったし。
他者の人生なんて、覗けないのだから。
 
結局、同じ人間なんて居なくて、
だからなんでそんなに何かに比べてなきゃならないのか、わからない。
 
私の中でもどこかに小さくある比較する本能のようなもの。
だけど、
 
自分の中で
比べるものも、比べられそうなものも、
正直見つからない。
だんだんと限界までいって、
暗い場所にひとり。同じところに誰もいない。
ただ、世界はまわっていて、
私はそこに体を持ち、考える頭があり、
居るだけ。
まるで世界に溶け込めない。
本当に、内側(精神)に引きこもったロボットだ。
人の心が理解できない。
 
他者は他者。自分は自分。
どう頑張っても、自分以外には成れない。
だから、私は、
私に出来ないことが出来る人を、普通と呼び、
比較じゃなく、
定義する。
 
ただの認識として。