幸福と不幸の定義

 

子供が月一度帰省します。
土日は帰省だった。
 
私ここに居たいよと、ここから歩いて今の学校通う!なんて言っていた。
 
…ごめんね。来年、ここに住めるかわからないんだ。
その言葉を飲み込む。
帰省のこの時間が楽しみなのに、なんだろう。
ずっと不安がぐるぐる回っている。
 
なんでだろう。夫が行ってしまったことも
とてもとても辛かったのに、
今は1番、住めないだろう事実が、
ものすごい重圧になっていて、解決できないことに、無力さしか感じない。
子供の顔を見ると不甲斐ない自分が情けなくて、
別に怪我なんてしてないのに何か苦しくて痛い。
 
私には、精神はあるけれど心というものがあるのかないのかわからない。
 
まるで自分だけが不幸みたいに側からは見えるのかもしれない。元夫にも悲劇のヒロインか、的なことを大昔言われたことがある。
自分だけ?…そうだろうか。
苦しくて悲しくて、孤独に在る自分が無力すぎて
情けなくて
今は楽しくて笑うより、自動的に反応で笑っている。
それでも、私は不幸だとは思わない。
だれかに比べてなんて周りに誰も居ないし、
比べようもないし、同じじゃない。
悲しいことが他者より大きくたって、
、、
それで幸せに、なれない、よね。
 
私は、幸せだと思う。
苦しくて涙が出そうで、私の精神が正気保つスレスレになっても、
私は、幸せだ。
 
願いがあるから。望みがあるから。
捨てられないから。
私という人間が、出来損ないで人に疎まれても、
それは、私にだからで、私が生きていることで、
誰にも信用されないのなら、それが私で
生まれてきてきょうだいより下でなくてはならなくて、出来てはダメで、出来損ないでいなければならなくて、
けれどもそれが、私、だからで。
私の身に降りかかるものは、私が受けなければならないもの。苦しむのも泣くのも
自分の責任のうち。
 
お前のせいだって夢の中で叫んでも
現実はそう思いたくなくて、そう思ったところで何も変わらない。
 
望むことがある内は、踏みつけられる痛みがある。苦しい。
絶望したら、
不幸だと思うようになったら、
私は終わりだと思う。
だからまだ、望みを捨てない限り、私は幸せだ。
辛くて悲しくて、それでも、
生きていきたい。
 
全て背負ってしまうのは、なんでかな。
捨てたらいいと思えたけど。
問題が起きなければ、重要じゃなかったのに、
なんで、ひとりで生きちゃだめなの?
誰かに分けることなど出来ない。
子供に降りかかるものも今は私が受けるべきだ。
 
守るために生きている。
子供が居なければ、
夫が行ってしまった理由も、私にあるだろうから
出来損ないの駒など、生きている価値はなかった。私と違う人生がありこれからがある者を守っていく。それが私が生きている間にするべきこと。
現実なかなか上手くいかないけれど。
 
私は生きる意味がある。
辛くて逃げ出したいけど、生きていたいと本当は願っていて、逃げなくても良い方法が欲しいだけ。
 
今はこの部屋でずっと暮らしたいよ。
ここに根を下ろしてここから頑張りたいよ。
本来なら鬱の自分を振り払って歩き出せる頃だったのに、
不安が消えないの。
この部屋にあるものを売り払ってもお金は手に入るだろうけど、
信用も繋がりも得られるわけじゃない。
私が何を捨てたら、いいのかな。
 
この社会でひっそりと暮らしていける透明な身分証が欲しい。